大上院勝のブログ
【珠生の体験談】私は優しい手の持ち主でありたい -親子関係のカルマから学ぶこと -
ごきげんよう、角尾珠生でございます。
先日、受講中の【魂の光・マスタープラクティショナー】のワークとして、〈エゴの中にいるとき〉というテーマで娘との出来事をFacebookのグループに投稿しました。
そして、月に一度の受講日にZoom上で皆さんとお会いした時に、一緒に学んでいる方がその投稿を見て「とても感動しました!プリントアウトして周りのお母さん達や子育て支援事業をしている友人に配ってもいいですか?」と言ってくださったのです。
青天のへきれきというのがぴったりの体験でした。
なぜなら最近新しい仕事を始めたり、夫が緊急事態宣言に伴い仕事がより激務になったりで目が回るほど慌ただしく、どんな内容で投稿したか記憶になかったからです。
ただ、私と娘の個人的な事ではあるものの、別に誰に知られても恥じることなき事実ですから、「何でもいいですよ、好きに使ってください。焼くなり煮るなり、どうぞ、どうぞ。」とお伝えしたら「そんな、何でもいいって!」と笑われてしまいました。
あんまり自分をさらけ出すことに躊躇が無いのが、私の長所のひとつでございます。

その後、自分の投稿を読み返してみて『私にとってはこれが日常で、しかもあんまり褒められた内容じゃないし、反省文みたいだと自分では思うけれど、誰かを感動させたり、是非誰かに伝えたいと言ってもらえるようなことなんだ。』と胸がジ~ンと熱くなりました。
内容は、『よくある子どもの第一次イヤイヤ期突入、もしくは、自己主張が激しくなってきた1歳7ヶ月の娘が「嫌だ、そうじゃない。」という意思表示を、首を横に振りつつ、ギィエェェー!!という耳をつん裂く泣き声オプション付きで表現します』というボヤキから始まります。
原文のまま掲載しますね。
おはようから、おやすみまで
例え話や冗談ではなく、一日の全てが「嫌なんじゃーーーー!!!」なわけです。
オムツひとつ替えるのもトムとジェリーみたいな大騒ぎなのです。
元来、辛抱強いものの瞬間湯沸かし器並みにカッとなりやすい私にとっては、常に試練です。
〈そのたびに何とか穏やかに冷静〉に対処しようと試みていますが、もうぶっちゃけ、感情のままに娘をぶん殴りたいし怒鳴りつけたくなります。
その方が早いと思うIt,パイシスな私がいます。
だがしかし、それは早く見えるだけで実際は破滅の道と知っているので、自分を落ち着けようとしています。
「エゴちゃん、今日もあなたは私の中にいるのね。私のだからか、とっても頑固ね。OK,大丈夫、面倒見ていくよ。」と気づいています。
娘を寝かしつける時に頭やほっぺを撫でさするので、私が手を娘の顔に向けて差し出すとニコッと笑うか、自分から顔を差し出します。
「尊し。」といつも思います。
娘にとって私の手は「怖い手」ではなく「優しい手」なのだと思うと泣きそうになります。
私は未だに夫がゴミか何かを取ってくれようとして頭に手をかざされると、無意識にギュッと目をつぶって肩をすくめて防御姿勢をとることがあります。
「怖い手」にはなりたくない、絶対になってはいけない。
万が一そんな手になってしまったら、私は自分の手を叩き折らねばならない、とさえ思います。
その考え方すらIt,パイシスです、はい。
人生って一朝一夕にはいかないわねー、でも牛の歩みも千里だから、たまちゃん、ファイト&ネバギバ♪と元気づける日々です。
こんな内容だったのです。
こちらのブログでも度々登場する私の父は、いつも怒っている人でした。

何が気に入らないか分からなくなった子供の様にいつも不機嫌で、大体怒鳴られるか、物を投げられるか、怖い言葉で脅しつけられていました。
今、冷静に分析するとちょっと駄々をこねる娘と通じるものがあります。
でも、そんなことが分からない幼い私はただただ恐ろしくて、「痛いのも怖いのも嫌だ」と体を小さく縮こまらせていました。
母もやはり痛いのも怖いのも嫌だったのでしょう。
「お父さんを怒らせるんじゃありません。」というスタンスで、私が些細なことでもイタズラをすると物凄い勢いで体を叩かれたり、何かちょっとしたワガママをいうと母からも大きな声で叱りつけられました。
ですから私にとって、両親の手は「優しい手」ではありませんでした。
いつも私の命と人としての尊厳を脅かす「怖い手」だったのです。

どれだけ両親に優しくしてもらおうと良い子にしていても、「優しい手」で触ってもらえることは殆どありませんでした。
それが本当にとてもとても辛かったので、私は何があっても娘に「優しい手」で触ってあげようと決めました。
しかし、悲しいことに虐待の連鎖、カルマの連鎖は中々強固で頑丈に出来ています。
「怒鳴って殴ったら黙るし、ちょっとはイライラが収まってスッとするかもよ。」と私の耳元で悪魔の囁きが聞こえるわけです。
「そんなこと絶対にやったらダメに決まってるだろうが!」と、余裕がある時は退けられても、体にも心にも余裕が無くなってくると決心はグラグラと揺らいできます。
そして、限界点に達した時に遂にポロっと「いい加減にしろよ!!痛くされないと分からないのか!!」と娘に大きな声で怒鳴り、びっくりした娘を見て「あぁやってしまった・・・。」と罪悪感を感じるのです。

この罪悪感というか、私の中から湧いてくるものは、悲痛な叫び声のように物凄い衝撃で私の体を貫きます。
『自分がされて嫌だったことを娘にするの?
両親がそうだったように?それで何が解決するの?
それであなたはどうなったの?
あんなに苦しんで自分に価値が無いと信じ込んで、何度も死のうとしたのに?
もうそんな不幸な子供は自分で最後にするって決めたのに?
あなたの決意はどこにいったの?
今すぐに娘に謝って、そしてまた新しく始めるの。
絶対に諦めないって決めたでしょ?』
このようにセルフ叱咤激励を0.5秒くらいで済ませたら、娘を抱っこしながら「大きい声出してごめんよー、でもママも成長途中の人間なんだよー。そして今は最大限に余裕が無いのー、だからお手柔らかに頼むよー、おむつくらい替えさせてよー。」と泣きながら部屋の中をグルグル練り歩いています。
そんな時、娘は呑気に私の肩に顔を擦り付けてキャッキャッと笑っているのです。

娘はきっと確信犯で私を弄びつつ試しているのではないかとさえ思う今日この頃です。
しかし、そんなところも愛しいので全て受け入れてもいいかもしれないと考えています。
先生方がいつもおっしゃる〈無償の愛・無償の奉仕〉とはこういうことなのだと、最近よりいっそう気づいていきました。
全ての体験が貴重な気づきの機会なのだと、それを幸運にも与えられた私は恵まれた人間なのだと感謝しています。
この世に絶望して、生きることを諦めようとしたあの時に、どうしても最後の一歩が踏み出せなくて、それすら苦痛で仕方なかったけれど『それだけは(死ぬこと)ダメだ』という心の声に従って良かったです。
ひょっとしたら、未来(今)の私が意識だけタイムスリップして過去の私を引き留めていたのかもしれません。
同時に両親の辛さも分かるようになってきました。

彼らにも誰か一人でも良いから、側に寄り添って根気よく自分と向き合ってくれる人がいたら、違う人生があったことでしょう。
そして先祖から続くカルマの連鎖のことを知っていたら、家族の関係は違っていたかもしれません。
ただ、その場合だと私が今この世に存在していたかどうか分からないので、全てが必然で必要なことだったのかとも思います。
全ての出来事は一度起きてしまえば、取り返すことも改変することも出来ません。
可能なのは今、自分のすべきことを成し、最善の方法を選択して未来を作ることだけなのです。

自分の至らなさを素直に認め、決して責めず、常に解決策を模索する。
そのためには膨大なパワーとエネルギーが必要になります。
本来、私たちの中にそのパワーもエネルギーもあるはずなのに多くの人が上手く引き出せていません。
それは脈々と引き継がれてきたカルマであったり、自我の欲求がズッシリと圧し掛かっているいるからです。
それらを支えて押しつぶされないことで手一杯になってしまい、本来の魂の目的を遂行するまで至らないのです。
せっかく、生まれてきたのに何も成せず、カルマだけ増やして死んでいく。
次に生まれた時にはより多くのカルマを背負った状態で始めなければならない。
凄く勿体ないし、誰も幸せにならないと強く感じるので私は時々、うぇーんと泣いてしまうことがあっても決して諦めずに成長の道を進んで参ります。

-パイシスの時代からアクエリアスの時代へ―
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