『御神言』と『三六九の儀』大上院勝とマドレーヌ道子の ~カルマ解消~ & Misogi Academy

食べ物の祈り | 大上院勝の「三六九の儀」& Misogi Academy

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~真理と正しい人間関係を学び霊的成長の道を目指す~

食べ物の祈り

2011年03月26日

日々の食事は、わたしたちの人格を形成する上で、非常に重要な要因になっています。食事によって取り込まれた要素により、わたしたちの思考や想いが形成され、それによって行為が決定づけられます。
そのため、日々の食事は、できるだけ神聖で清らかなものを口にすべきであるといわれています。食事の前の祈り「フード・プレヤー」は、食事を霊的な面から清め、神聖な食事へと変化させます。

フード・プレヤー
──食事の前の祈り(『神の詩』(中央アート出版社)より)

食事の前に神に祈り、すべての食べものを神に捧げることによって、料理を清め、けがれのないものにすることが大切です。食事の前の祈りは、神のためのものではなく、自分のためのものです。神からの祝福をいただいて、食べものを清めるのです。
食事の前の祈りは、「バガヴァッド・ギーター」の第4章24節と、第15章14節を唱えます。

ブランマールパナム ブランマ ハヴィール
ブランマーグノォ ブランマナーフタム
ブランマイヴァ テーナ ガンタヴィヤムー
ブランマ カルマ サマーディナー
(Brahmaarpanam, Brahma Havir, Brahmaagnau Brahmanaa Hutam
Brahmaiva Tena Gantavyam, Brahma Karma Samadhinaha)

アハーム ヴァイシュヴァーナーロー ブットゥヴァー
プラーニナム デーハマーシュリタッハー
プラーナ アパーナ サマーユクタッハー
パチャーミャンナム チャトゥールヴィタム
(Aham Vaishvaanaro Bhutvaa, Praaninaam Dehamaashritaha,
Praanaapaana Samaa Yuktaha, Pachaamy Annam Chatur Vidham.)

捧げることは神(ブラフマン)であり、捧げるものも神である。
神は聖なる炎であり、その炎に捧げるものも神である。
神とひとつになる者とは、
すべての行為が神とひとつとなっている者だけ。

わたし(クリシュナ)は火の神ヴァイシュヴァーナーロー
すべてに広がる宇宙の力、
いのちの身体(からだ)に宿る者。
吐いて(プラーナ)吸う(アパーナ)いのちの呼吸とひとつになって、
すべての(4種の)食事を消化する。
〔訳注……ここで主クリシュナは戦士アルジュナに、「わたし」はヴァイシュヴァーナーロー(火の神アグニ)となって、食べものを体内で燃やし、消化すると語る。4種の食べものとは、のみこむもの、かむもの、すするもの、なめるもの。〕

祈りの前はありふれた食べものでしかなかったものが、神に捧げられると、神聖な食べもの(プラサーダム)に変わります。この祈りは、食器や食材に染みついた汚れを取り去り、料理している間に染みついた好ましからぬ影響を、みごとに清めてくれます。

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日時 1984年
場所 プッタパルティ、プラシャンティ・ニラヤム
出典 “Bhagavan Sri Sathya Sai Baba’s Discourses on the Bhagavad Gita”(サイババ『神の詩』(中央アート出版社))

天の意図

2011年03月17日

世界最大規模の地震と津波の災害になった天の意図について

 

過去に数年のうちには日本に大きな地震が起きることが予言されました。はたしてその通りになりました。どうしても起きることというものがあるのです。大きなカルマがあったり、神様が定められたりした場合です。

もちろん神様が定められた場合は、神は善きお方ですので、善なる意図を持って人間のために起こされるということになります。人間の側からすると忌まわしい、大変な災害ですが、それが人間に必要で人間のためになるのです。

 

人間は未だ不完全なため、自分の実感が真実でない場合が多いのです。人間が期待したり、起きて喜んだりすることがほんとうに良いものとは限りません。逆に人間が出来たら起きて欲しくない、また実際に起きた時、悲しんだり辛い思いをする、そのことが悪いとも限りません。

それは人間が神様とのズレがあるため、自分の実感が正しく働いていないからそのようになるのです。そのため人間が主観で良いとか、悪いとか嬉しいとか、嫌だとかそのように感ずるものは必ずしも正しくないので、神様が愛を持って起こされた事でも、まるで悪魔が起こされたように感じてしまうことがあるのです。

人間の方がいい意味で自分を疑い、自分の捉われから解放されれば真実を正しく見る眼(まなこ)が開かれてきます。そのような謙虚さや素直さ、柔軟性が求められます。そのような態勢が出来てくれば、起きることを厳(おごそ)かに受け止められ、自分の考えや感情ややり方に固執せずに、自分のほうこそ変えていって適切に応じて対処し、その結果、問題が解決していくのです。それが成長していくということ、また魂が浄化されカルマが解消していくことです。

 

ただ人間は自分のものを強く持ち習慣性のものがあるので、自分を変えたり、自分の非を認めたりすることは自我の死を意味するので、たいへん怖く、また辛いことです。それが試練の特徴です。

 

今回の大きな出来事で、特に日本人が自己否定という死の恐怖と辛さをくぐり抜ける事で、その代償として得がたい魂の浄化と育成が与えられようとしています。それが天の試みと意図です。ひとえに人間を愛する神の善意に基づいて起きた事なのです。

日本人に今ごろの時期、それがどうしても必要になって来たので、日本人の気づきと浄化と鍛錬のためにその大きな事が起きました。これによって悪魔が起こしたのでなく、神が起こされたことがわかることでしょう。予言をしたのは予(あらかじ)め気づかせ、備えさせるためです。また、御神意によって定められ、どうしても起きざるをえない事だったので、予めメッセージの中で知らされていました。

 

ニュージーランドの地震から前兆が始まっていました。外国でありながら、多くの日本人の死者が出てしまっていたのです。ニュージーランドの地震の直後に取られたメッセージ中でも、あと1、2年のうちに日本に中規模以上の地震が起きる可能性が高いこと、おそらく太平洋側で起きること、場所は言えないことなどが、先日のメッセージで明かされました。はたしてその少し後に東北地方に大地震が襲いました。やはり太平洋側でした。

 

2011年3月がペンテコステが成就する時であり、ほんとうに始まる時であると少し前から伝えられ始めていたのです。2011年の3月が始まりであり、ペンテコステが成就する時であると周りの人たちは聞かされていたので、さぞかし喜ばしい、嬉しい事がいろいろと3月にはあるのだろうと期待していたことでしょう。

確かにそのような喜び事や神様の徴(しるし)がいくつか3月前後に起き始めていました。しかしその一方で、喜ばしく嬉しい神様の純粋な御光(みひかり)を感じさせることの対極を成す、もっともその神様の純粋で喜ばしい至福感からほど遠い事が同じ3月に起きたのです。これが神様の試みです。

 

ヨハネの黙示録を見ると、忌まわしい大変な災害と神の愛の御業とが別々ではなく、相関連させられ同時進行で起きるように記述されています。

もちろん神様ご自身は、純粋に善と愛と智慧のお方です。そのことに違いはありません。しかし先ほども述べられたように、人間の側は神様とズレています。不完全で偏(かたよ)りがあり、汚れがあります。カルマも作っていて、果たすべきカルマがいっぱいあります。

 

そのため純粋な神様が人間のために働きかけてくださると、灰汁(あく)だしのようにその身や身辺周囲にいろいろ忌まわしい事として事が生ずるということがあるのです。人間のほうも純粋ならば、純粋な神様が人間に働きかければ素晴らしい事や至福感が出てくることでしょう。それが、人間が完成した場合です。しかし今のところ、まだまだ人類にはカルマも汚れも偏りもあるため、人間に神様が愛と善をもって働きかけると人間の中からいろいろと困ったものが起きて、辛さや悲しみが伴うという事があるのです。

しかし人間はその事に思い至らないので、神様が働きかけて善き目的のために起こしたとはとても思えません。実感としては、悪魔が起こしたように思えてしまうのです。あるいは誰かのせいでなったと感じます。

例えば、アメリカの同時多発テロが起きた場合、イスラムの原理主義の者たちが悪い、自分たちはひどい目に遭ったと実感してしまうのです。イスラムの原理主義の人たちにも問題はあったことでしょう。しかし、なぜその目に遭わなければならなかったかというと、自分たちにも似たような課題やカルマがあったから、問題のあるイスラム原理主義の人たちと関わって大変な目に遭うということが生じたわけです。

 

このように人間の世界では、純粋な神様のお働きが大変な災害や辛さや悲しみと同時進行で織り成されていく特徴があるのです。そのため2011年3月という今の時期もペンテコステの成就によって、素晴らしい始まりの徴がいろいろと顕れると思っていても、神様はカルマを現して解いてくださるので、またその時それを使って試練を与え人間を訓練されるので、訓練は当座は好ましいものと思えないため、ほんとうに神様のお働きかけかと疑わしく感じてしまうのです。だからこそ、それが試みにもなるのです。

それゆえ普段から自分を良く見つめて神様を祈り、自分を委(ゆだ)ねていないと試みに不合格になってしまいます。正しく現象を受け止め、対応することが必要なのです。そのためにお祈りや教えが人間には欠かせません。神様はそのために、お祈りや瞑想や教えを日頃与えてくださっているのです。いよいよ事が起きた時は祈り、そして教えを思い出して指針として対応しましょう。

 

広島や長崎に原爆が投下された時も、日本のキリスト教に所縁(ゆかり)のある地域に原爆が投下されたのです。では、キリスト教が悪で神様がキリスト教を消そうとしたのか?そうではなくて、キリスト教所縁の広島や長崎であったからこそ原爆を受けるという事が起きたのです。

 

1995年の1月17日に阪神淡路大震災が起きました。その3ヶ月後には、オウム事件が起きました。オウム事件も地震のようなものです。激震です。このように悲喜(ひき)交々(こもごも)、表面的に見ると善悪が入り混じって錯綜しながら、いったい何がほんとうで何が悪なのか迷ってしまい、どのように判断し対応してよいのか、いろいろな事が同時に起きてくるのが特徴です。しかし次第に落ち着いて見ていると見分けられてきます。

 

カルマが現れ出ると試みになりカルマが解けて、ほんとうのものが次第に世の中のために良い働きをして行く。ほんとうのものは地道で確かな足取りであるのが特徴的です。まずは悪が現れ出て清算されます。そしてその少し後から、ほんとうのものが頭角を現して、人々を育て導きます。95年にそれが起きました。

2011年の今の時期も同じように善悪がさまざまに起き始めているのです。数年前の新潟中越地震は10月23日に起きました。これも神様の日に忌まわしい地震が起きたわけです。このように人間界、地上界に純粋な神の愛の働きが起きる場合、人間には何がほんとうで何が問題なのか見分けられないような起き方をする場合が多いということです。

 

表面的に見ると神様が悪いようにさえ見てしまうことがあるのです。逆に、悪で問題なものが素晴らしかったり、良いように見えることもあります。だから人は騙されたり、惑わされるのです。よほどしっかりして柔軟で謙虚でないと見間違います。普通の人間の賢さや頭の良さとは違うのです。いつでも他を思いやり、自分を弁(わきま)えていてこそ、ほんとうの知恵が働いて見分けられるようになります。

2011年3月は、少し前から何度か周りに伝えられていた通りペンテコステの成就が起きる時で、ほんとうの始まりの時なのです。そうであるにもかかわらずではなく、そうであるが故にこそ3月に太平洋沖地震があったのです。神様が動かれ、浄化と育成の働きかけを日本人にいよいよ始められました。ありがたく平安をもたらすはずの聖霊の天からの降臨が、汚れた神から背く人間に降りてきたときに、このような形に変化して襲ってきたのです。

 

黙示録にも7つの怒りの鉢を天使が傾けると、次々に禍が起きたと書かれています。禍をもたらしたのは悪魔ではなく天使なのです。人間が自分を是としている限りは相手が悪く見えます。自分を自覚し弁(わきま)えるとやってくるもとが善であることがわかり、自分のことを否定でき、そこで救われていくのです。そのことがはたして日本人に出来るかどうかが試されているところです。

 

これからの復興に向け、残された私たちの心構えや留意点について

 

西日本は良くも悪くもエネルギーが強く盛んなので、つけ入る隙がありません。一方、東日本から北日本は特にアイヌの素地が強く、とりわけ東北は縄文文化がそのまま保持されているので、純朴でそのぶん隙があり弱いのです。

このように単に北日本にカルマが深いので、ひどい目に遭ったという単純な理由によるものではなく、西日本はともかくエネルギーが活発に動いて盛んなので地震を寄せつけませんでした。一方の東北はアイヌの純朴さがあったので隙があったといえばあったし、受け入れられるだけの純粋さや素直さがあったとも言えるのです。また、自らを犠牲に捧げられるものがキリストのようにあったとも言えます。

 

亡くなった方々はあの世に帰れて、この世の学びや対処から解放されます。世間的に見ると亡くなるという事は、最大の悲しみです。しかし霊的に見ると免れた、解放されたということなのです。残された者たちほど大変です。そこから苦難と悲しみと苦労が始まるからです。亡くなった方たちは解放され、帰って行けました。もちろん引き続き苦しむ御霊(みたま)たちもいますが、基本的には地上から解放されたのです。

 

一方、生き残った者たちはむしろそこからが大変です。とにかく生き続けなければなりません。生きるということは学んだり、対処したり、責任を取っていくことが伴います。それが残された者たち、特に被災民、被災者の人たちというより、関東より西の地域の人たちに過酷なレッスンと対処が求められていくことになるのです。

東北の人たちは淡白で純朴で生に対する執着も少ないので、自ずとそのあたりに地震と津波が引き起こされました。もちろん科学的に見れば、地盤のプレートのズレがちょうど東北の近海沖のところに南北に走っていたから、そこに地震が起きたということです。その説明に間違いはありません。しかし霊的な説明としては、今話されたことがあったのです。そのため今後の対処や学びは残された者たち、しかも被災者の人たちというより、安全で生活している関東から西の地域の日本人たちのほうにあります。その証拠に恐れが始まり、困り始めています。神様から試され始めているのです。

 

福島にある原子力発電が爆発し放射能の漏れが始まったのは、もっと日本人が自制し足ることを知り、少ないところで満足し、感謝し、食べ物やさまざまなものを大切にする生活が出来ること。そして霊的なことや神様のことに目を向け、もっと思いやりを持って、人々や自然に接して生きねばならないことを教えています。実際、原子力発電の爆発によって、節電が否が応でも求められだしているのです。

これまで食べ物にしてもエネルギーにしても、粗末にし感謝しませんでした。そのような事はこれから通用しなくなるということです。スーパーなどに行っても、お金があっても品物じたいが並ばない時が来る。そのような事は以前からリーディングや講話で何度も言われ続けて来たことです。それが現実となってきているのです。

 

節電やエネルギーを使うことの抑制も言われ続けていましたが、日本人がそれをしないので、渋々させられるような事態になったのです。それだけでなく霊的な事や魂、神様に目覚めるほうに向かって行くことが重要です。単に自制して自然と共存するというところで止まらず、もっと命の根源に目を向けて感謝し、そして自然や他の人を敬って、助け合って生きることが求められているのです。そのためのきっかけが試練という形で与えられました。

 

私たちが学ぶべきこと、取るべき方向と取り組み方について

 

エネルギーを生み出す媒体や手段として原子力発電はもっとも効果的であり、現在の人間にとって容易に出来やすい方法でした。そのため原子力の危険性や副作用的なものがあること、その問題を知りつつも、つい人間は原子力に頼り、他の自然エネルギーを開発したり、あるいはエネルギーを使う分量を抑制したりということはせずに、そのまま来てしまっていました。それは神の意に副(そ)わないことでした。そのため強制的に中断されたのです。

 

困ることが起きて初めて人間はやめます。困ったことが起きた場合、法則として行き過ぎに対する歯止めと軌道修正が迫られているということが必ずあるのです。これは個人レベルでも、大きな単位で起きる場合でも同じことです。本人が気づいてやめればそのような目に遭わなくて済むのですが、気づかなかったり気づいてもやめないと、事が起きて渋々やめざるをえなくなり、方向転換をしなければならない羽目になるのです。

 

日本人はガツンとやられたということです。それが神の愛に基づく働きかけです。今の日本人に必要な訓育なのです。今後は原子力によるエネルギーの需要が見直されて行かねばなりません。そして電気を始めエネルギーをもっと大切にし、人間は自制して行かねばなりません。それ以上に魂に目覚め、愛を持って生きるようにならねばなりません。

 

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