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親子のカルマ~母の悲しみを引き受けると決めて生まれてきた息子・・・ | 大上院勝の「三六九の儀」& Misogi Academy

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親子のカルマ~母の悲しみを引き受けると決めて生まれてきた息子~第一章

こんにちは。
美由紀です。

今回は私と息子の親子のカルマについてお話しをさせてください。

子供は一人でいいと思っていた私でしたが、愛娘からの「私、可愛い妹が欲しいの」の願いに応えたくて決心した妊娠、出産。

嫁ぎ先は男児の出生が途絶えない家系。
待望の男児の誕生であり、私の実家は女系家系で60年ぶりに生まれた男児でした。


可愛い小さな色白の天使みたいな男の子。

私の第一声は「天使を産んでしまった」でした。

娘もとても喜んでくれました。

里帰りをしなかった私。自宅に戻りワンオペ育児が始まりました。

双子二人分の母乳が出た私は肉体的にも疲労が重なり乳腺炎を繰り返しました。
粗食にして水分を控えても乳腺が詰まります。飲ませ残しがあるとそこが詰まるので、自分で絞ります。

そうなると睡眠不足にもなりました。
体は一日中ふらふらです。

無理がたたり、とうとう高熱を出して切開までになってしまった時は本当に辛かったです。
高熱と飛び上がるほどの痛みは一週間以上続きました。

オペの日、息子を抱え一人で病院から帰宅した私はとてもお腹が空いていました。
夫の両親と同居していましたが、労いの言葉はなく食事の用意もしていてもらえず、2階に上がり涙をポロポロこぼしながら血で染まったガーゼを剥がして息子にお乳をあげました。

赤ちゃんの息子はその時どんな気持ちで私のお乳を飲んでいたのでしょうか。

今振り返ると私の悲しみのエネルギーは全部息子に伝わっていたと思います。
そして今だったら「誰か助けて下さい!」と声をあげていたと思います。

当時の私は土地や先祖の大きなカルマの渦中にいたこともあり一人耐えていました。
息子が寝ている時は一緒に横にならないと体力が持たなくて、娘の遊びの相手も出来なくなりました。

体力が落ちると気力も落ちてきます。毎日のように睡眠は取れず飲食もセーブする生活に、気持ちも滅入るようになっていきました。


朝から悲しくて涙が出て、自分ではどうしようもならない苦しさが私を襲いました。

今思えば、私は産後鬱になっていたのだと思います。

土地や先祖からの霊的な影響もあり私の肉体や精神は壊れ始めていきました。
時々、棺桶に横たわる自分の映像が見えたりしました。「死んでしまいたい」初めてそう思ったのもこの時期でした。

そんな私を心配した母が故郷から来て、家事や育児を手伝ってくれた事があります。
親しい友人も助けてくれました。

涙が出るほど嬉しくて、有り難かった思い出です。
苦しみの中にも支えてくださる人はいて愛を与えてくださる人は必ずいますね。

私とは対照的に、赤ちゃんの息子は元気にすくすくと育っていきましたが、半年を過ぎた頃、アトピーを発症し、息子は敏感な体質を持って生まれたことを私は悟りました。

原因は体質的なものもありましたが霊的な影響もありました。
生まれながらにして息子は敏感で繊細な体質を持って、メッセンジャーとして転生してきたのです。

そのころの私はカルマの存在はまだ知りませんでしたので、医療行為だけ受けて様子を見ていたのでした。

私の体調は変わらず悪くなるばかり。

夫や同居していた両親に対しても不信感ばかりが募り、実家にも帰れず八方塞がりのような状態になっていた時、あるご縁から大上院先生と道子先生のお知り合いである治療院の先生方との出会いを頂きました。


治療を受けている時、つかまり立ちを始めたばかりの息子が私の足元にまとわりついてキラキラした目で私を見上げた時、涙が溢れてきました。先生方には「辛かったね」と言って頂き心を込めて治療をして頂きました。

優しく声をかけてもらったことがとても嬉しかった私です。

息子は2歳になる頃小児喘息を発症しました。

その頃私は外に外に幸せを求めていました。

「私のせいだ。。。」

私が好き勝手していたから息子が病気になってしまったと思い込み自分を責めました。
二週間程の入院に付き添い自宅に帰った時、夫の両親に息子の付き添いをしたことを否定されました。

私の付き添いが原因で甘えん坊になってしまったと。。。

まだ2歳になったばかりの敏感な息子を病院に一人で入院させるのはとても心配でしたし、付き添いが許可されていたのでそんな風に言われて私はとても驚きました。

義妹の子が病を発症した時、付き添いが許可されない病院だったこともあり、私達親子と比べられた時「病院にお見舞いも、差し入れもしてくれなかったのに何故そんな酷いことが言えるの!」心の中で叫んでいた私です。


私は労いの言葉が欲しかっただけ。
あたたく「お帰り、待っていたよ」と迎えて欲しかっただけでした。

愛されたい、認めて欲しい私が心の中で泣いていました。

傍にいた息子はそんな私の悲しみのエネルギーを感じていたと思います。


息子の喘息の病は、土地に埋もれた御霊たちやご先祖様からの強烈なメッセージであり、当時の私への戒めでもありました。

>>> 嫁いだ家系の土地を清め続けている美由紀の体験 -土地のカルマ –

また、広い自宅の敷地や農地に撒かれる農薬や除草剤、工場の排気ガス、放射能、全て人間私達のエゴが作り出した負のカルマを息子が全身全霊で拒否し、私に伝えてくれていたのです。

そんなことともつゆ知らず、私はただただ苦しみの中で自分のことしか見えていなかった。

子供たちの体調不良、自身の体調不良、家で起きる度重なる災いごとに自暴自棄になり次第に人と接することさえも億劫になっていきました。

誰かに助けて欲しくて欲しくてたまらなかった。

話を聞いてくれる人が欲しかった。

温かいお茶を淹れてくれる人が隣にいたらどんなに良かったか。。。

今はただ静かにそう思います。


子供たちは可愛らしくかけがえの無い存在でした。

でも理由なく悲しくて辛い。

全てを投げ出してしまいたい。

そんな衝動から、泣きながら子供達の前で玩具箱をひっくり返したこともあります。

小さな娘が、まだよちよち歩きの息子をしっかりと抱きしめて私を見つめていました。

離婚したくとも、経済的にも自分の体力にも自信がない。

私は自分の精神のバランスを取るために、外側に幸せを更に求めるようになりました。

週末に子供たちを夫に預け友人と出かけ、独身と偽わり異性と飲み会をしたり、フラダンスにはまり昼夜を問わず練習に明け暮れ、自分の名声や評価を望みました。

フラの衣装代が買えなくて子供の貯金をおろしたこともあります。

私はそこまで壊れていた。

そうしないと自分を保てなかったからです。

そんな私を傍でずっと見ていた幼少の時の息子です。

けれど息子は私のことが本当に好きでいつもママが大好きだよと甘えてくれました。

私も本当に息子が大切でした。

だからこそバランスを取らないと自分がどうなってしまうのが恐かったのです。

つづく…

次回のブログは、息子が経験していく様々な困難。親子の葛藤。親子の霊的成長に至るまでをお話していきます。
ご拝読ありがとうございました。

>>親子のカルマ〜母の悲しみを引き受けると決めて生まれてきた息子〜第二章

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