『御神言』と『三六九の儀』大上院勝とマドレーヌ道子の ~カルマ解消~ & Misogi Academy

【珠生の体験談】種をまくという行為が絶対に無駄にはならないと・・・ | 大上院勝とマドレーヌ道子の『カルマ解消』& Misogi Academy

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【珠生の体験談】種をまくという行為が絶対に無駄にはならないという証明。

ごきげんよう、角尾珠生でございます。

ようやく木々が芽吹き、花咲き誇る春がやってまいりました。

冬の私は全ての感覚が硬く閉じがちなので、思考もネガティブな方向へ行ってしまうことが多く、些細な事でも大きな不安にすり替えてしまいます。

そういった自我の囚われに飲み込まれて目の前のものが見えなくなると、真っ先に娘が不機嫌になって教えてくれます。

「ママさーん、向いてる方向間違ってましゅよー!!そっちじゃないでしゅよー!!」

と言わんばかりに1日中、喚き暴れるわけです。

子は親の鏡とはよく言ったもので、娘はいつも進むべき道を指し示してくれるのです。
ただ、凄く大胆で強引な部分もあって困惑することも少なくないのですが。。。。(笑)

仕事がオーバーワークに振りきれようとすれば、パソコンやタブレットを床に投げつけて壊そうとし、夜に睡眠時間を削ってでも仕事をしようとすれば寝ぐずって私を側に置こうとする。


「いい加減にして!どうして私が困ることばかりするのよ!?一体、何が望みなの!?」と泣き叫んだこともありました。

一日中喚き散らす娘もそれを受け入れきれない自分も、やってもやっても進まない仕事も、何もかもが嫌になっていました。
でも、娘は私を困らせたかったわけではないのです。

《お金がないと生きていけないという恐れは、実態の無いただの強迫観念だと気づけ。》と一生懸命伝えようとしてくれていただけ、それを言葉がまだうまく操れないから行動で示してくれただけでした。

ある日、その答えが天啓の如く私の中におりてきて道子先生にご報告しましたら、


『大いなる気づきでしたね。お金への執着、それはお父さんたちから引き継がれたカルマでもあり、自虐的な強迫観念にも発展していました。収支計画通りならお金に困ることなどありません。もちろん、やりたいことやしたいことは一部だけかもしれません。

幸せとは【当たり前に生きれること】で欲を満たすことではありません。(中略)愛する人がいて、愛する人に仕事があって、多少トンチンカンでも愛されているならもう絶対に幸せです。

原点に気づいてくれてありがとう。』

とおっしゃっていただきました。

世間一般の価値観という固定概念に縛られて、ついつい自分が何のために生きているのかという重要なことを忘れてしまいがちでした。

確かに生活していく上でお金とはあると便利なアイテムなわけですが、そのお金を稼ぐためにイライラして心身をすり減らして、それで誰が幸せになるの?お金にフォーカスした人生って何になるの?そもそも私は何のためにお金を稼ぎたいと思ったの?と自問自答した結果、家族の平穏のためにお金を稼ぎたいと思ったのに、こんなんじゃ本末転倒じゃないのと気づきました。

そこから仕事の量をセーブして、受けきれないお仕事はお断りさせていただくようにしました。

そうしたら何と娘が人が変わったように落ち着き静かな子になったのです。
「お腹が空いた・おむつが気持ち悪い・ちょっと眠いから添い寝しろ。」以外では全く喚き散らすことがなくなったのです。

私が仕事をしている横で大人しくおもちゃで遊んでいる娘を見て、すまないことをしたなぁと感じました。
もっと娘からのメッセージを早く受け取ってあげたらよかったのに、今度はもっと早く分かってあげようと決めました。

このように私と娘の関係が落ち着き安定してくると、不思議と仕事もサクサク進むわけです。

セーブしなくても良かったのでは?と自我の欲求がぴょこっと出てくる瞬間もありますが、セーブしたから落ち着いているの、これでまたオーバーワークしだしたら元の戦場みたいな家庭に逆戻りだよと自制しています。

落ち着きを取り戻し、余裕が出てくると、
今まで紐解いてこなかった部分にも光を当てられるようになります。

このブログでもお伝えしておりますが、亡くなった父と次姉に対して私は長い間激しい憎悪の念を抱いていました。
勝先生や道子先生と出会い、カルマの法則を知り我が身に起こったことの理由を知って納得していたつもりでした。
しかし、心の奥底の深い深い所で「父と次姉に一言、言ってやらないと気が済まない。」という気持ちがずっとあったのです。

父や次姉が私にしたことを考えれば、それはとても当たり前の感情でした。
しかも本人たちはもう亡くなってこの世にいませんから、実際に行う事は不可能なので余計にその欲求は強く私の中で行き場を無くして彷徨っていました。

しかし、「よし、言おう!言ってもいいはずだ!私にはそれくらい言っても許される権利がある!」と勢いよく思い立ち、頭の中で想像してみたのです。

生前の父と次姉の姿を思い出して二人の肩をそれぞれ掴んでゆさゆさと揺さぶりながら、

「何で私にあんな酷い事ができたのよ!!!何回も考えたけどさっぱり分からないわよ!!!どうして私のように己を律して誰かに危害を加えないようにと努めてくれなかったの!!!」と叫んでみました、想像の中でも悲しくて涙がたくさん出ました。


すると二人とも申し訳なさそうに「ごめん、でも俺(私)もなぜなのかは分からない。」と言ったような気がしました。

その瞬間、憑き物が落ちたようにすっと気持ちが楽になり心が軽くなり、「そうだよねぇ、カルマの影響って無意識の支配だもんねぇ。何でかなんか分かんないよねぇ、分かってたらやってないもんねぇ。」というように改めて納得しました。

色々な事が複雑に絡まり合って影響し合い、その結果の必然で起こり、仕方がないことだったのだとようやく認めることができたのです。

同時に「私に非は無かった。私が悪いわけでもなかった。だからもうそのことで自分を責めなくても良い。」と自分自身を許すことができたのです。


多くの場合、虐待されて育った子供は自己肯定感が低く訳もなく常に自分が悪いと思っているので、虐待する親などから独立した後も何かしらの方法で自分を傷付けてしまう傾向があります。

過酷で不条理な環境で多感な時期を過ごしたがために、それが普通だと勘違いしてしまうわけです。

そんなことないし、する必要もない、自分らしく自分の幸せのために生きていい、そのためにまた生まれてきたのよとピッカーン!と開眼したので今は何だか色々楽しくて仕方がありません。

本来、生きていくということは悲しみより喜びの方が多いはずです。
それを知っているから、様々な使命を背負っても生まれてくることを望んだのですから。

しかし、この世には魅惑的な誘惑や巧妙な罠があちらこちらにあります。
ちょっと油断すると直ぐに自我の渦に飲み込まれて、大事なことを全部忘れて欲求のみを追い求めてしまう。
そしてどんどん新たにカルマを作りだし、自分も周囲も本来の幸せから遠のいてしまう。

いかにそこに気づけるか、いつも今ここに戻って来られるか。


実態の無い恐れに惑わされずに、真の自分を貫いて生きていけるか。

日々が学びだと繰り返し、繰り返し、感じています。

それでもやっぱり惑わされる時もあり、その度に娘に喝を入れられています。

「私のために生まれてきてくれた」と言葉で表すと束縛が行き過ぎる毒親のようですが、どうもそんな気がしてなりません。

娘は、絶望だらけの暗雲立ち込める私の人生に差し込んだ希望の光なのかもしれない、大いなる祝福を授かったと感じるのです。また私自身も「娘に会うために艱難辛苦を乗り越えて、今ここに在るのだ。」と思えるようになりました。

過ごしてきた膨大な時間をあんなものには何の価値もない無駄だったと思ったことも、神様はただ傍観してるだけで、どれだけ辛くても私を助けてくれないと呪いの言葉を吐いたこともありました。

でも、私がずっと誰か側に居てくれる人が欲しいと乞い願ったから娘が来てくれた。


寂しくて生きるのがただただ辛かった私の約20年の帳尻を合わせにきてくれた。

あの20年は今この時を迎えるために必要だったと思えるようになったのです。
私は自分で思っているよりずっと幸せだったのねと気づきました。

このように幸せを感じるのに、若干の練習が必要な場合もあるようです。
それでも幸せだと気づけたことに感謝しています。


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